昭和44年3月14日 夜の御理解      (末永信太郎)    №44-041



 今朝から、朝の御理解に、大きな信心とはという御理解を頂いてまいりました。今日は、一日そのことに取り組ませてもらい、そのことに焦点をおいて、まあ、けいこして参りましたわけですけれども。なかなか、今朝の御理解を頂いておりますと、大きな信心とは、大きなことばかりを願うというのではなくて、大きな信心とは、大きなおかげを受けるということだと、結論すると。
 そこで、大きな信心とは大きなおかげを受けることだから、その大きなおかげの受けられる信心をさせて頂かなければならない。それが、大きな信心だと。そんなら、その大きな信心というのは、やはり様々な問題が、(いくら?こう?)ありますから、なら、それを有り難いという心で、それを嫌だとか、困ったとか、情けないとかというものを、その有り難いという心で、まあ、打ち消していく、と。そういう心が有り難い、大きな信心だという風に頂きましたです。なかなか難しい。
 今日夕方、公子さんがお風呂を言って来ましたから、私はお風呂が沸いたと、こう言うて来たと思った。それで入ろと思って、そこで久富先生も、風呂が沸いたそうですから入りましょうかと言われるから、裸になって風呂場行ったところが、今から入りよるとこだ、と。どうして、もう、(入れますよ?)と言うと来てから、公子さんは、今からお風呂を入れても良いですか、だったらしいんです。
 本当にあの、聞き違いちゅうか、手違いという、その、で、そげなことでもですね、やはり、それを有り難くそれが受けられる。有り難いもので消されなければならんのだけれども、なかなか、こちらに有り難いものが持ち合わせがないと、有り難いで打ち消されない。そんなことじゃいけんじゃないか、(注意しなきゃいけない)と、言いやせんでも、心の中にその思いよる。ね。
 だから、実際にそれ取り組んでみると、その難しいことがわかりますが。私は今晩、大変おかげを頂いた。もう、本当におかげを頂いた。やはり、あの教えには取り組んで取り組み抜かなければいけないなということです。今、御祈念にかかろうとする時に、妹がお届けを致します。皆さんもご承知でしたでしょうが、あの、椛目時代に外灯を家から、村からつけてありますのを教会から払うことになっとった。
 もう、もちろん、教会はこちらに移転して来たのですから、他のところに何ヶ所もついておるのは、村の金でしておられるのですから。それも、教会の前を明るくするという訳じゃなくて、椛目の真中に立ってあるのですから、だいたいは家から払うべきじゃないのですけれども、なら、それだけは家から払わせて頂けと言うて、まあ、私がだいたい払うて来ておった。だからもう、それはそれなりだと思うとったところが、今晩、妹がお届けさせてもらいますのに、その、村のお世話役の方が見えてから、あの、本当にスマヨちゃん一人に払わせちから、本当に、ようやくその、一年何ヶ月も払うてもろうてから、これからは村から払うからと言うて見えた、と。しかも、その他にいくつもあるとの割り当てまで取りに、いつも金は取りに来るそうです。もうこれは、私なら言うでしょうねおそらく。
 それは、家から、あれはいっちょ、また払いよるけん、もう、割り当てぐらいは払わんでよかそうなもんですの、とか。もう、私は兄がおる時なら、これも払いよったばってん、私の細々の生活の中から、村の電気を私が一人で払うちゅうことはちょっとおかしいから、もう、これはいっちょ村で払うて下さいとか、言うだろう。言うても、また当たり前なことなんだけれどもね。
 それを、とにかくあの、そしてしかも、なら、あれが時々切れるでしょう。そすと、やっぱり球を買うて来てから、それを若い方に、誰かはめてもらいよったと、こう言うのですよ。はあ、本当に私は、大きな信心とは、これだと思うんですよね、やはり。
 私、それを聞かせて頂きながら、私の心の中に、もう大変おかげを頂いた。有り難いことだ、と。もう、本当にそこにですね、馬鹿らしいとか、言わにゃいけんとか、これは当たり前のことだからと言うたら、もう大きな信心はないですね。そこに、まあ、一年何ヶ月間の後じゃけども、周りの人が気が付いて、そういう結果になっておるわけですけど。
 後はまた、なら、そうして下さいと、こう言やあ、それでいい訳ですけれども。ね。それだけのことじゃない、私はここで、大祭の日にちが大変問題になっておりますけれども。ほんに、こういうことでもですね、こちらが涙を流して大祭の日にちを変更されたと言うなら、やっぱしいけないけども。こちらが有り難く、それを受けて行くというか、有り難く消せれるなら、これは大祭の日も替えたっちゃ良いなと、こう思う。総会でもそうである。わざわざ、もう合楽が16日の総会のこと分かっておるのに、信徒集会をしゃっちその16日に開かにゃいけん、と。
 合楽が総会ならば、一時間早めに繰り上げて、九時からさせてもらや良いだろうから、と言うて話は決まっとったのにも関わらず、やはり、十時から。余儀なく、だから12時までを、なら、合楽の者はくしわらの教会でですか、まあ、貸し切りバスを仕立てて行こうけれども、12時までしかおかげを頂かれん。帰って来て、総会を開こうということにも決まってるんですけども。
 これでも、まあ、例えば、なら椛目の人が百人なら百人行ってから、あそこのお広前に百人ガバッと開けたら、もう、それこそ後は大事な行徳先生の講師で見えるそうですが、お話の時に、それこそ歯が欠けたようになるだろうと、こう思うておったけれどもですね。まあ、それは仕方がないと思うておったけれど、そんな事じゃないな、と。
 やはり、これは最後まで信徒集会にもおかげ頂いて良いな。これは、合楽の総会をくしわらで開かせて頂くようなもんだ、と。ぎりぎり決着は、まあ、夕方からでもいい。帰って、一言、大祭一月前の、その(歩道?ほぞう?)を固めると言うか、決心がつきゃあ、それで大祭の意義は済むのです。以前は、総会を例えば二日市、大宰府で開いたり、または、どこどこで開いたり、外で持ち出してまでしよった時代もあったんだから、くしわらの教会で、しかも講師の先生方まで迎えてから総会を開かれるということは、これは、かえって有り難いことじゃないか、と。
 これは、昼まで帰らずに、向こうにも、そすと安心してもらえるだろう。親先生もどのくらい安心されるじゃろうかと、私は思うたん。ね。これが、その、もう本当に合楽をつけ込んどるから、そげなことすると思うたら、腹が立つ。だから、横にでも家の大祭の変更は出けないとか言うて、その、おりましたけれどもね、もう有り難いもので消せれるならば、しかし、ね、大きな信心とは大きなおかげを受けることだと、結論してあるんですから。
 大きなおかげを頂くためには、やはり、そのおかげを頂いたら、これは、いよいよ大きなおかげになるぞと思うて、今日、今晩の御祈念にお礼申させて頂いたんですけれど。問題はやはり、取り組まなければいけない。ね。朝の御理解に本気で取り組ませて頂いて、例えば今日のような、なら、今晩のような結論が出るようなおかげを私の心の中に頂くということが、大きなおかげを頂く信心ということになるのじゃなかろうかと思うのです。
 本当にもう、有り難いなあ、私、妹の話を聞かせてもらいよってから、まあ、こういう風な気持ちに、どういう風にしたらなれるやろうか、と。お互いがそこんところに修行させて頂いとるのですけれども、なかなか出来ません。ね。本当におかげを頂き、それが、まあ、月に二百円あまりの金を毎月払うたり、電球を時たま替えたりするぐらいなことじゃなくて、それが、金額がどんなに大きゅうなろうが、どういう、それは事であろうが、事件であろうが、そのような風にして受けて行くことこそが、大きな信心だな、と。
 そこには、大きな信心には、大きなおかげが必ず伴うておるということをです、今朝の御理解に頂いたのですから。その事を信じて、いよいよ、一段と大きな信心にならなきゃならないなと、私は今晩は思わせて頂いたんです。どうぞ。